2016年9月14日一部加筆修正
<時代/城主/西暦/和暦/出来事>
安土桃山時代
1546/天文15
空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)を建立
佐久間盛政/1580/天正8
織田信長の武将佐久間盛政が一向宗の尾山御坊を攻略し入城
前田利家/1583-1587/天正11-15
賤ヶ岳合戦の後、前田利家が金沢城に入城
家臣高山右近に命じ、大手・搦手を整備させる
尾山城と改称
1592/文禄1
利家の子、利長に石垣普請を命じる
二の丸・三の丸・西の丸・北の丸を設ける
前田利長/1599/慶長4
徳川家康と関係悪化
内堀を設け戦備固める
翌年の関ヶ原合戦の功により加増、120万石となる
1602/慶長7
落雷により天守焼失、城中延焼
代わりに三階櫓が建造
この頃から金沢城という名称が定着
江戸時代
1603/慶長8
場内は復興するも天守は設置せず
重臣屋敷は城下に移す
前田利常/1605/慶長10
外堀・桝形を設ける
1620/元和6
城内より出火し金沢城全焼
1621/元和7
城中を復旧
縄張りをやや変更
1631/寛永8
市中より出火
辰巳櫓・本丸焼失
1632/寛永9
辰巳用水が城内に引かれる
前田光高/1639/寛永16
富山藩・大聖寺藩を分封
前田綱紀/1645/正保2
城中の瓦を鉛製に改める
前田吉徳/1723/享保8
吉徳の代、幕府へ15万両貸す
前田宗辰/1745/延享2
宗辰の代、加賀騒動起こる
前田重教/1759/宝暦9
宝暦の大火
市中より出火、本丸三階櫓。辰巳櫓など焼失する
前田治脩/1771/明和8
治脩の代、天明の飢饉が起こる
1799/寛政11
地震によって石垣が崩れる
前田斉広/1802/享和2
領民に3300貫目の調達銀を命じる
1808/文化5
二の丸御殿全焼
前田斉泰/1822/文政5
この年、竹沢御殿の庭園が兼六園と命名される
1858/安政5
地震により城中に被害を受ける
明治時代
前田慶寧/1869/明治2
版籍奉還
1881/明治14
石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫を残して二の丸など全焼
昭和時代
1949/昭和24
戦後新設された金沢大学(丸の内キャンパス)として使用
1950/昭和25
石川門が国の重要文化財に指定
1957/昭和32
三十間長屋が国の重要文化財に指定
平成時代
1995/平成7
1949年から本丸に所在した金沢大学移転
2001/平成13
菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓を復元し金沢城公園と改称
2006/平成18
日本100名城に選定
2008/平成20
金沢城跡として国の史跡に指定
2011/平成22
河北門と、いもり堀の一部が復元
尾山御坊の戦い
加賀一向一揆最大の拠点
加賀国で浄土真宗(一向宗)が力をつけた理由は2つある
蓮如が越前の吉崎に道場を構えたことと、応仁・文明の乱のとき加賀の守護である富樫政親は弟の幸千代と争い、有利な状況を作り出すために本願寺門徒の協力を求めた
その結果、正親は加賀の守護大名として勢力を伸ばしたが、同時に一向一揆の勢力も伸びることになった
1488年(長享二年)富樫政親と一向一揆との戦いとなり正親の高尾城は20万と言われる一向一揆の大群に包囲され、自刃した
以後、守護不在の本願寺法王国として100年続くのであった
金沢坊舎や金沢御堂などとも呼ばれる尾山御坊(金沢御坊)だが当初は違った
加州三ヶ寺と言われた河北郡若松の宝泉寺、能美郡波佐谷の松岡寺、江沼郡山田の光教寺の三ヶ寺が加賀一向一揆を代表する
次第に本願寺と直結するようになり、本願寺の出先機関として1546年天文15年加賀平野に突出した小立野台地先端に尾山御坊が設けられた
柴田勝家・佐久間盛政
1580年天正8年3月に石山本願寺との講話に持ち込んだ織田信長は本願寺復活を警戒し、その財政基盤であった加賀一向一揆を解体させる必要を考え、柴田勝家に加賀へ侵攻を命じた
柴田勝家は越前から加賀に侵入し安宅から本吉、宮腰浦を通って河北郡へ入る
いっぽう、柴田勝家の重臣筆頭佐久間盛政は山沿いの道から入る
吉野から剣、倉ケ岳を通って若松伝灯寺、さらに進み能登へ入り末森城を攻めた
尾山御坊(金沢御坊)には松永隼人の子丹波が主将となり、富樫蔵人・鏑木右衛門・田屋大炊・堀才之助と言った武将で守りを固めていた
彼らは柴田勝家に注意を払っていたため、佐久間盛政隊の存在に気がついておらず、背後からの攻めに混乱が生じ尾山御坊は陥落した
尾山御坊が陥落した後も一揆側の抵抗は続き、8月一気の首領格だった岸田常徳が攻められ、10月には坪坂新五郎・得田小次郎といった一揆方の主だった部将が討たれほぼ制圧された
11月勝家は毛受勝介を使者として信長のもとに一揆の首領19人の首を送った
加賀国は柴田勝家に任される形となり、佐久間盛政には加賀国のうち石川・河北2群13万石が与えられた
佐久間盛政は母が勝家の姉という関係でもある
石川・河北の2群の大名となった佐久間盛政は尾山御坊を接収したあと若干手を入れ城と使った
これが尾山城である
しかし、佐久間盛政の在城期間はわずか4年足らずでその後1583年天正11年の賤ヶ岳の戦いで敗走してしまう
兼六園
兼六園は水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つである
大名庭園の典型とも言える
金沢城に付属した外園で、第4代藩主前田綱紀の時代に作庭がはじまった
以後、170年もの歳月をかけて完成される
庭は当初、蓮池庭と呼ばれ、歴代藩主や重臣らが観楓の宴などをする場として使われていた
霞ヶ池
唐崎松:霞ヶ池に面して立っているクロマツの木。13代藩主斉泰が、近江八景の一つである琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて育てたもの
前田利家 1538~1599
金小札白糸懸胴丸具足
前田利家は1538年天文7年に生まれ幼名は犬千代
天文7年はイヌ年なので犬千代というわけだ
しかし、最近では1536年説や1537年説もある
根拠として豊臣秀吉が死んだ時に死者と同年齢・同性の人間が行う魔除けのまじない(耳塞ぎ餅)をしたという
秀吉は天文6年生まれまたは、天文5年生まれ(サル年)と言われた
1551年天文20年に織田信長に小姓として使えた
この時、前田利家14歳の時
前田利家は全体指揮する大将というよりも一部隊の指揮官として才能を発揮するタイプで切り込み隊長として活躍した
槍を取っては無双「槍の又左(正式:前田又左衛門利家)」の異名を持つ
利家は前田家四男だったが信長の後押しもあり兄利久の後を継いで前田家当主となった
利久の養子の前田利益は前田慶次郎利益である
(滝川一益が実父)
信長政権時は羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀のより下の位置だったが、羽柴秀吉と仲が良かったことが運命を大きく分けた
本能寺の変により信長の死、その後の賤ヶ岳の合戦において前田利家は柴田勝家軍に所属しながら羽柴秀吉に味方した
同い年で部下で、同僚で、主人となった秀吉に誠心誠意仕え豊臣政権の五大老の一員となった
尾山御坊と佐久間金沢城の贈物
尾山御坊
- 加賀一向一揆の拠点
- 他力本願の意味
- 尾山御坊の最後
佐久間金沢城
- 前田の金沢城と佐久間の金沢城に使い分け
- 佐久間盛政、鬼玄蕃
- 続・佐久間盛政 賤ヶ岳の合戦
ここまで読んでくれているのならばどういうことを尾山御坊とサクカナが伝えたかったのかわかるよね~?
(長いから読んでないという方は読んでどうぞ)
金沢城周辺の御城など(城主)
- 穴水城 長谷部信連
- 小丸山城 前田利家
- 高尾城 富樫政親
- 鳥越城 鈴木出羽守
- 小松城 若林長門
- 大聖寺城 不明
- 末森城 不明
- 津幡城 平維盛
- 高岡城 前田利長
- 松倉城 不明
- 魚津城 椎名孫八
リンク
住所:石川県金沢市丸の内1の1
アクセスJR西日本北陸本線金沢駅から北鉄バスで約15分「兼六園下」下車、徒歩約5分
兼六園に行ってきた時の記事⇒今年の長期休暇は石川観光!金沢めぐりはいかが?
思ったより火事の被害が多いですね
結構全焼してますし・・・
前田利家からの金沢城とは別なのが佐久間金沢城なので前田利家の紹介なんて全く関係ないんですけど、金沢城としての紹介をしたのでご容赦ください
今後、前田金沢城が出てくるかもしれませんね
そうしたらまた書き直ししますかねぇ~