2016年9月14日一部加筆修正
<時代/城主/西暦/和暦/出来事>
室町時代
大森氏/1417/応永24
駿河鮎沢より入り、築城
北条早雲/1495/明応4
早雲、小田原城を占拠
関八州制覇の拠点とする
北条氏綱/1519/永正16
早雲没、88歳
北条氏康/1541/天文10
氏綱没、55歳
北条氏政/1559/永禄2
氏康隠居
1561/永禄4
上杉謙信、小田原城を包囲するも撤退
1569/永禄12
武田信玄、小田原城を包囲するも撤退
安土桃山時代
北条氏直/1589/天正17
大外郭の普請着工
1590/天正18(贈り物イベント)
約25万の豊臣秀吉軍に攻められ開城
氏政、氏輝は自害 氏直は高野山へ追放
大久保忠世/1590/天正18
徳川家康の家臣の大久保忠世封入
江戸時代
1614/慶長19
大久保家改易で幕府直下の番城となる
大地震により城が被害を受ける
阿部正次/1619/元和5
上総大多喜から封入
武蔵岩槻へ転封
稲葉正勝/1632/寛永9
下野真岡から入封
1633/寛永10
大地震により城が被害を受ける
稲葉正則/1634/寛永11
13歳で襲封し、22年間老中を務める
稲葉正道/1683/天保3
正則の長男の正道(正往)
藩主となる
大久保忠朝/1686/貞享3
下総佐倉から入封
大久保忠増/1698/元禄11
藩主となり、1705年に老中となる
1703/元禄16
大地震により被害を受ける
1707/宝永4
富士山が噴火し被害を受ける
大久保忠真/1796/寛政8
藩主となる
大久保忠愨/1853/嘉永6
大地震により被害を受ける
明治時代
大久保忠礼/1868/明治1
新政府軍軍監らを殺害した罪により、永蟄居
大久保忠良/1869/明治2
版籍奉還
1870/明治3
廃城 天守と櫓4基を売却処分
他の建物も全て破却
大正時代
1923/大正12
関東大震災で石垣が崩れる
昭和時代
1934/昭和9
二の丸隅櫓再建
1960/昭和35
天守閣復興
1971/昭和46
常盤木門再建
平成時代
1997/平成9
銅門復元
2009/平成21
馬出門復元
小田原城 贈り物
- 小田原城は日本最大級の広さを誇る御城 北条五代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)について
- 小田原名物ういろうについて
- 豊臣秀吉の小田原征伐について
小田原城絵図
北条早雲(伊勢宗瑞)1432~1519
北条早雲を語る上で、知っておかないといけないことがある
- 鎌倉時代の北条家とは縁もゆかりもない
- 本人は北条と名乗ったことがない
北条と名乗り始めたのは息子の氏綱からである
北条氏というと、代々鎌倉幕府の執権を務めていた北条家をイメージするかもしれないが全く関係ない
関東では北条のほうが通りが良いので本家が滅んでしまったことをいいことに北条を名乗り始めたのだ
鎌倉時代の北条と区別するため後北条氏と呼ばれる
北条早雲の本名はまだ確定できていない
伊勢新九郎長氏、氏茂、氏盛など色々な呼ばれをする
どれも可能性があるので否定出来ない
しかし、死後の名(戒名)はわかっている
早雲寺殿天岳宗瑞という
使われたことが確実な姓と名をもって伊勢宗瑞と呼ばれる
もっと知りたい人は北条早雲wikipediaへどうぞ
北条五代についてはココ
ういろう
本来「ういろう」は中国元朝の礼部員外郎だった陳延祐を祖とする外郎家が伝えてきた霊薬の名である
延祐は南北朝時代に渡来し、子孫は典医職として朝廷に使えた
また、同家では薬とともに菓子の製法も伝えており、この菓子も「ういろう」とよばれた
小田原外郎家は第五代藤右衛門定治が北条早雲に招かれて移り住んだのがはじまり
小田原城周辺の御城など(城主)
- 興国寺城 北条早雲
- 山中城 北条氏康
- 滝山城 大石定重
- 八王子城 北条氏照
- 今井陣場 徳川家康
- 鷹ノ巣城 不明
- 新井城 不明
- 岡崎城 岡崎義実
- 小机城 不明
- 津久井城 津久井氏
- 大庭城 大庭氏
- 玉縄城 北条早雲
リンク
住所:神奈川県小田原市城内
本日(投稿日)5月3日は小田原北條五代祭りが開催されています
コレをきっかけに御城に興味をもってお出かけしたり、御城について調べるのも面白いかもしれません
かなり気まぐれで書きました
小田原城を持っている人は是非使ってあげてね